−その5 朝湯のあとは語り部バス、そして船とくれば餌やり炸裂おしんこどん −



ホテル観洋の売りはホテルのどこからでも見える日の出。この日もしっかり観賞できました(上画像マウスオン)。今日も晴れるな(嬉)。

(2014/7/28 その1)

明けて翌朝です。ご覧のとおりの日の出を拝み、昨晩の松原食堂さんで作ってもらっていた朝ごはんのおにぎりをパクつき、皆さまの朝食時間を狙ってお風呂に行ってきましょう(笑)。


よっしゃー、ほぼ満室に近いくらいだと思うのにお風呂貸し切りっ!



続いては露天風呂に出てみましょう。こちらもまた貸し切りなので。



日の出の時はさぞかし混んでたんでしょうね。でもそんな時間には近づかないのがわたくしです。
さて、前ページにも書きましたが8:45発の語り部バスに乗るべく、チェックアウトを済ませてロビー方面へ(荷物は車の中に移動)。
なお、このあと何ページかにわたり津波被災地をあちこちめぐることになるわけですが、過去のわれわれの訪問の様子を見ていただくと、比較対象として参考になるかも知れませんのでそれぞれのページへのリンクをしておきます。新しいウィンドウが開くのでご覧下さい。なお、このページで訪問しているのは南三陸町志津川地区です。
2011年8月(南下) 小本−田老−(浄土ヶ浜)宮古−山田−吉里吉里−釜石−陸前高田−気仙沼−南三陸(志津川)−石巻
2012年4月(北上) 石巻−十三浜−南三陸(志津川)−気仙沼−陸前高田−大船渡
2013年5月(南下) 志津川−十三浜(大室南部神楽鑑賞)−雄勝−女川−石巻

驚いたことにバスは3台も用意されていました。われわれの乗ったバスもほぼ満席(右上画像マウスオン)。それだけこの地を訪れる旅行者が被災地に関心を持っているということなのでしょう。

しかし、ここ志津川地区の震災遺構はかの防災庁舎を除けばほとんど残されていません。わたしが震災後初めて訪問したとき(2011/8)と比べれば「ここに町があった」ことを示す痕跡は格段に少なくなりました。「あの日のことを思い出す遺構を見たくない」という地元の方の気持ちは分かりますが、このままでは「見どころの少ない海沿いの町(しかも震災前に比べればかなり無機的な)」が出来上がるばかりです。

気仙沼鹿折地区に打ち上げられた「第18共徳丸」が撤去されて以降、近隣にあった復興商店街の客足は「激減」したそうです。でもある意味それは当然のことで、外部の人を引き寄せるシンボルがなければ「その場所に行ってみたい」という願望を生み出すことが出来ません。だからこそ、写真や映像では決して伝えられない(=人の心を揺さぶる)リアルな象徴が必要なのだと思うのです。わたし自身も、震災後の三陸訪問時の現地の光景を見て「こ、これは‥」と唖然とすると同時に「少しでもこの現実を現地以外の人に見てもらいたい」と強く感じましたし、正直言って復興が進めば進むほどリアリティはなくなるのです。
もちろん多くを残せというつもりはありません。右上画像に写っている旧公立志津川病院などは津波で多くの人命が失われました。このような施設を残すというのはご遺族にとってあまりに酷な話だったでしょう(今は撤去されて跡形もありません)。ただせめてもう少し‥という中、

(それにしても阿部長さん、本当に手広く事業展開していたんですね)。
4階建ての高野会館、津波で4階フロアも水に浸かりましたが、当日建物内にいた人や(3/11は金曜日でしたから結婚式はなかったかもしれませんが)避難してきた近隣住民ら330人は屋上に避難し全員無事だったといいます
すでに復興作業によるがれき撤去は見る限り全て完了し、今のメイン作業はかさ上げや防潮堤の復旧及び新造にあるようです。となれば目に入ってくるのはいわゆる「工事現場」ばかりであり正直言って「目を惹く」ものは特にありません。それは同時に「外から来る人にとって『地域としての魅力』がどんどんなくなっている」ことでもあると思います。

ところで今回の津波被害で、高台にあった沼田地区(現在南三陸町役場ほか主要施設が移転し今や町の中心部?)は被害を免れました。そこにはもともと金融機関ほかがあったのですが、震災のどさくさに紛れ金庫が盗まれたとか、避難した家にも空き巣が入ったりといった治安の悪化は明らかにあったらしいです。震災後、全国各地から多くの警察官が被災地に派遣されましたが、交通整理のみならずやはり「治安の維持」は重要な任務だったのですね。

震災後、特に世界的に「日本の治安の良さ」が評判になりましたが、局所的に不逞の輩が出没したというのは被災地のあちこちから聞こえてくる現実です。ただ救いなのはそれが大きなムーブメントにはならなかったということですね。そしてそのことだけでも「世界に誇れる」ことなのではないかと思います。

さて左上画像を見ると、海沿いの堤防の上に構造物が見えています。「あの高さまで堤防をかさ上げします」ということなのでしょうが、ものすごい立方メートルの土やコンクリートが必要になるのは当然のことです(このあともっとすごい現場を見ることになったのですが)。右上画像は内陸側の画像ですが、10.6mのかさ上げ‥調べてみたら、志津川地区全体のかさ上げには340万立方m(東京ドーム3つ弱)の土が必要になるそうで、その作業のために‥


いやダンプの多さをとやかくいうつもりもないんですが、いったい今三陸の津波被災地全体でどれだけのダンプが稼働しているのだろうと考えてしまったくらいです。

来たる2020年の東京オリンピックに向けて、すでに工事に携わる人材や機材の逼迫が起きているようです。しかしですね(ここからは個人的見解ですので念のため)、
特に日本の場合今さら「国威発揚」なんてのは必要ないわけです。震災前の2006年に招致決議が出て以来2度目のトライで開催を決定したわけですが、果たして震災後も招致活動を継続すべきだったのか?「1回休み」という手はなかったのでしょうか?(そんな簡単なものではないのだろうとは思いますが、とにかく開催に固執すべき明確な理由はあったのか?)。

「震災からの復興」を旗印にしながら、その肝心のオリンピックが被災地の復興作業を阻害するということであるならばあまりに皮肉な話です。いっそのこと「三陸オリンピック(仙台でメイン開催)」とかだったらよかったのに(苦笑)。

さて再び話を現地に戻しましょう。どうも普段の旅行記とは違い私見がやたらに顔を出してしまってゴメンナサイ(苦笑)。
続いてやって来たのは有名な「南三陸町(旧)防災庁舎」。最後まで避難を呼びかけた女性職員の逸話はまさにこの場所で起きたことなのです(この防災庁舎被災についての詳しいサイトはこちらです。ある意味必見です)。

世界的にみても並ぶもののない大津波災害。こちらの庁舎でも多くの方々が亡くなられたのはいうまでもありません。あのアンテナによじ登った方々ほかごく一部の方々だけが生き残ったということ‥。

この旧庁舎も住民投票により一時は取り壊しが決められたそうですが、公共の建物であるがゆえ、そして何よりも南三陸町の震災遺構の象徴としてこの建物を残してほしい。否、この構造物があるからこそ外部からの観光客(決して日本人だけじゃないですよ)がここ南三陸に訪れると思うのです。高野会館だけでは(躯体はあちらのほうが大きいですが)役不足なんです。この庁舎だからこそなのです。

震災遺構の保存については前にも書きましたが、今後三陸が観光でお客さんを呼び込むためには「リアス観光と海の幸、そして間違いなく震災遺構訪問」の3つを絡めるべきだと思うのです。こういう比較がいいかどうかは分かりませんが「原爆ドームの存在が、どれだけ広島の観光的価値を高めてきたか」ということと同じだと思うのです。

三陸道の工事がものすごい勢いで進み、仙台方面からのアクセスはどんどんよくなるでしょう。しかし三陸道は中腹の山あいをトンネルを連ねて通過します。各市町村中心部にはあえてICを下りる必要があり、そうなると「どこに立ち寄るか?」という選択が生じます(全ての市町村を各駅停車的に訪問する観光客は圧倒的に少ないはず)。

仮に自分が旅行会社勤務だったとして(実際は全然違いますよ)、そして「別地域からのお客さんを想定した三陸縦断ツアー」なるものを企画したとして、「悲惨な津波被害を乗り越え、見た目は市街地も港湾もほぼ完全に復興しました。震災の面影は残っていませんが公共の記念館で写真やビデオをご覧いただけますから大丈夫です」というような地区に立ち寄ろうと考えるか?わたし個人の考えとしては「否」です(あくまで個人的な見解ですが)。ただ一般的にみても少なくともその訪問優先順位は高くはならないと思いますし、そもそも宿泊が絡まない限り旅行者が現地に落とすお金もそう多くはないでしょう。それでは地域の活性化に繋がっていかないわけです。

「この地ならでは」の価値は実はそこに住む人に気付かないところにありますし、それはある意味やむを得ないことかと思います(自分が住んでいる千葉県市川市についても、結婚して奈良から来た妻おしんこどんのほうが今やある面でははるかに詳しいんです)。三陸の場合はもちろんそこに「残された方々の悲惨な被災記憶」がどんとのしかかっているのはわかるのですが‥何度も書いていますがまたあえて書きます。

かの気仙沼の共徳丸も、地元の方々の住民投票が決め手となって解体が決定されたようですが、個人的には「本当に所有者(福島県いわき市の会社=解体意向あり)と市民の意向を聞くだけで決めてしまってよかったのかな」と。個人的には「気仙沼市は長期的にみてとても貴重な『防災&観光資源』を自ら放棄してしまった」と思っています(あくまでTakema個人の意見です。同意を強制するつもりは毛頭ありません)。

震災前の三陸観光がそもそもジリ貧だったことを考えれば、観光の態勢も単に「震災前に戻す」のではなく「新たな観光資源として津波遺構をも活用すること」が、地域の活性化のために有用なのではないかと思うのです。何といっても、マスコミの報道やインターネットなどにより、「日本で起こった津波」は世界的にも超有名なのですから。

ハイ、また話がぶっ飛びましたね。そんなわけでジャスト1時間後の9:45、語り部バスツアー終了でホテル観洋に戻ってきました。

ここでいいなと思ったのが、ホテル発仙台駅行き無料バスとの連携。宿泊者用にホテルのバスを走らせているのですが、その出発時間が10:00なので、この語り部バスを利用してからスムーズに仙台まで出られる&帰り便に仙台から一気にお客さんを運んでこられるというわけです。仙台駅というのがミソで、これが仮に石巻発着とか最寄りの新幹線駅であるくりこま高原駅発着だとしたらそれほどのお客さんは呼び込めないはずです(仙石線はまだ一部区間が不通ですし、くりこま高原駅は本数も少ない)。さらに観光客という立場からすれば、仙台には訪問するに足る場所もお食事処もたくさんあり旅行者を飽きさせないのですから。

さてしかしわれわれはそれとは別のバスに乗り込みます。はい、まだ自分の車には乗り込まないのですよ。で、どこに行くのかというと‥

先ほどより小さなマイクロバスで出発です。左上画像のお店は、震災後かなり早い時期からこの看板を出していたような気がします。一度立ち寄ってみたいと思っているのですがこの日も結局行かれず。まぁ、また来ればいいのさ!

右上画像はR45の旧市街地メインストリートですがご覧のとおり何も‥あ、右側に見えているRC造の建物が高野会館です。ちなみに道路を挟んだほぼ向かい側(かさ上げされている場所)にあったのが旧公立志津川病院というわけです。まだ建物が存在していたころの訪問ページはこちら(2011/8)。いま思えばちょうど高野会館の前あたりから撮っていたのかなと。
そんなわけでやって来たのは袖浜漁港。ここからは「海から志津川を眺めてみよう」というわけなのです。ちなみにこちらの船もやはり(株)阿部長商店グループ企業の船なのだそうで、本当に何から何までとびっくりしますが、震災前データで従業員数730名、震災の年もしっかり50人の社員を採用したビッグ企業だからこそ、この船を新造する余力があったのだろうと思います(右上画像マウスオン)。

あれ、でも2013年4月進水ということですが(右上画像マウスオン)、このクルージングが再開されたのは2014年7月(6月かも)とのこと。進水後約1年もの間、この船は何か別の任にあたっていたのでしょうかね?(不明)。
まあ何はともあれ乗船です(1100円/人)。こういう船に乗るのは2011/8の浄土ヶ浜以来かなと思っていましたが、考えてみれば2011年末にNZカイコウラでホエールウォッチングとかミルフォードサウンドのクルーズとか、さらには2013夏にはカムチャッカでアバチャ湾クルーズとかにも乗っていたわけで、実は自分は結構遊覧船好きなんだなということをあらためて実感(笑)。
さて約20名ほどのお客さんを乗せて出港です(定員は55名)。袖浜漁港の防波堤を横目にしながら出港していきますが、既存の防波堤の上部に乗っかっている新しいコンクリート。これはあの高さのぶんこのエリアの地盤が沈降したことを示しています。

ちなみにこれから向かう陸前高田市では最大84cmの沈降があったそうで、ここ南三陸町でも60-69cm沈降したようです。つまりはその分のかさ上げということなのでしょうが、もう誰しもが知っています。そのかさ上げは津波にはまったく無力であることを(そもそも津波ではなく通常時の高潮対策なのですからごっちゃにしちゃいけませんが)。

なお、左上画像の奥に見える高架橋は県道221号に続く町道だと思います。これも震災前に整備されていた津波避難路で、おそらくこの道を通って避難なさった方もかなりおられたのではないでしょうか。

震災後しばらくあとまで、この高架の下には震災がれきという名の家財道具が多く集積されていました(画像はこちらのページに@2012GW)。それを横目にして悲しい気持ちになりましたが(ちなみに県道221号は昔ながらの細道ながら高台を通っているため沿道の家屋は全て無事だったように見えました)、その2年後、見た目はすっかり綺麗になったこの地の海をクルージングできるようになるとは!(いや率直に嬉しいんです)。


ウミネコ舞う海の向こうにホテル観洋が見えます。それにしても大きい施設だなー。
さて‥勘のいい拙サイト読者であればもうお気づきでしょう、このあと何が始まるか(笑)。はいその通り、餌づけ大好きおしんこどんの餌やりです!ここ三陸エリアの観光船は基本的に餌やりフリーなのですが、こちらではウミネコパンではなく市販のえびせんをあげるシステム。もちろん船内で買えるので乗船前に準備しておく必要はありません。








キミは1勝(くわえた)1敗(落とした=顔の横)1分け(取れなかった)ですね(笑)。

聞けば、たくさん集まってくるウミネコの中でも実際に手から餌をキャッチできる器用な輩はごく一部らしく、それが出来ない大多数の鳥は「おこぼれ専門」なのだとか。なるほどそう言われてみると、結構同じような個体に見える‥(上の4画像は数十分の間に撮った画像をランダムに載せたものですので)。

さてそうなると、いつもの動画ですね!(こういう進行はいつも強引です(笑))。



動画のあとの方になればなるほど頻繁に食います。風向き対応に慣れたのかな。


それほど大きくはない船なので船長さんもすぐ上におられます。でも船玉(霊)様は案外素っ気なく置かれているのが意外でした(左上画像マウスオン)。

で、右上画像は牡蠣の養殖エリア。右上画像にマウスオンすると作業中のサッパ船画像に変わりますが、ここ南三陸ではなかったにしろ、Takemaオフキャンプでは来年(2015年)も三陸牡蠣限定でバンバンやりますからねーっ!(ちなみに2014/5オフキャンプの様子についてはこちらをご覧下さい)。

そこそこ楽しんだ上で(でもやっぱり一番の売りは景色よりウミネコなのかなと実感)11:30くらいに再びホテル観洋に戻ってきました。さすがにもうこのあと阿部長さんグループのお世話になることはありません。そんなわけでちょっと早いですがお昼ごはんといたしましょう。となれば!(以下次ページ)。

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